日本プロ野球史
2001年(平成13年)
オリックスの五十嵐章人選手がプロ入り11年目で初の四番を打ち、スタメン全打順を
達成。プロ野球史上初。
1953年(昭和28年)
中日球場(名古屋)のナイター設備が完成。
1957年(昭和32年)
阪急・梶本陸夫投手、西宮球場での対南海戦で連続9奪三振の新記録。
1970年(昭和45年)
巨人・王貞治選手、後楽園球場の対広島戦で5試合連続本塁打を記録。
1974年(昭和49年)
ロッテのアルトマン選手が後楽園球場の対日本ハム戦で6試合連続本塁打。
1995年(平成7年)
西武・郭泰源投手は対近鉄戦で、外国人投手としては初めての通算1000奪三振を達成。
1944年(昭和19年)
戦火が忍び寄る中、同26日まで西宮球場で東西対抗戦を開催。西軍が3連勝。同月17日に
後楽園球場で開催予定だった東西対抗戦は空襲のため中止となっていた。
2004年(平成16年)
巨人は、中日に3対11で敗れ、札幌ドームでの3連戦に全敗。巨人の北海道で同一シリーズ
3連敗は初。
1959年(昭和34年)
天皇、皇后両陛下、後楽園球場の巨人-大阪(現・阪神)戦をご観戦。プロ野球では初
の天覧試合で、巨人・長嶋茂雄選手が大阪・村山実投手から劇的なサヨナラホームラン。
1974年(昭和49年)
阪急・長池徳二選手、西宮球場の対南海戦で11試合連続打点のパ・リーグ記録。
1982年(昭和57年)
広岡達朗監督は、就任1年目の西武が本拠地を埼玉に移して初のパ・リーグ前期優勝が
決定。同年のプレーオフを制して、初のリーグ優勝へ。
1986年(昭和61年)
阪神・バース選手は18日以来、7試合連続本塁打を放ち、これは1972年の巨人・王貞治選
手に並ぶ日本記録となった。
1968年(昭和43年)
広島・山内一弘選手が川﨑球場の対大洋戦で通算1980試合出場の日本記録。
1969年(昭和44年)
東映・大杉勝男選手、大阪球場の対何回線で5試合連続本塁打を記録。
1986年(昭和61年)
阪急・石嶺和彦選手が、51試合連続出塁の日本新記録を達成。記録は56試合まで伸ば
した。
1936年(昭和11年)
同年2月14日からアメリカに遠征していた巨人が帰国。歓迎試合が甲子園球場で開催さ
れ、阪神-巨人が初顔合わせ。阪神が連勝。
1955年(昭和30年)
オールスター・ゲームのファン投票で大阪(現・阪神)選手に集団投票。
1988年(昭和63年)
5月6日から帰国欠場していた阪神・バース選手が解雇される。同日、大麻容疑の近鉄・
デービス選手も解雇。
2004年(平成16年)
ダイエー・城島健司選手が対近鉄戦でパ・リーグ2人目となる一シーズン18個目の死球を
受け、閉幕まで22死球とする。
1946年(昭和21年)
終戦後、徐々にプロ野球に選手が復帰する中、「打撃の神様」川上哲治選手が巨人に
復帰。
1950年(昭和25年)
巨人・藤本英雄投手が対西日本戦(青森球場)でプロ野球史上初の完全試合を記録。
1955年(昭和30年)
トンボのスタルヒン投手が、川崎球場の対大映戦で史上初の300勝を達成。
1965年(昭和40年)
阪神・バッキー投手が、甲子園球場の阪神-巨人戦でノーヒット・ノーランを達成。
1966年(昭和41年)
西鉄・稲尾和久投手、平和台球場の対東京戦でパ・リーグ2人目の通算250勝。
1974年(昭和49年)
阪急・高井保弘選手、平和台球場の対太平洋クラブ戦で代打本塁打通算14本の日本記録。
1990年(平成2年)
“バントの名手”西武・平野謙選手が通算265犠打の日本新記録。
1991年(平成3年)
西武-ロッテ戦で1回から5回まで連続5イニング本塁打のパ・リーグ新記録。
2003年(平成15年)
ヤクルト・古田敦也選手は広島市民球場で4本塁打。1試合4本はプロ野球5人目だが、
捕手としては初の記録。
1946年(昭和21年)
プロ野球の試合を対象に日本勧業銀行が発売した「野球くじ」が売り出される。射幸心
を煽るとともに八百長行為の可能性も指摘され廃止される1950年まで発売した。
1974年(昭和49年)
巨人・王貞治選手、後楽園球場の対ヤクルト戦で通算2000試合出場。
1994年(平成6年)
オリックス・イチローは対近鉄戦で4打数4安打をマークし、閉幕から63試合目で打率を4
割に乗せる。
1963年(昭和38年)
国鉄・金田正一投手が東京球場での対広島戦で通算311勝。別所毅彦投手の310勝を抜
き、日本新記録を樹立。
1985年(昭和60年)
阪神-巨人戦中止の甲子園球場で、怒ったファン約1000人がグラウンドに乱入し、1時間
45分にわたり占拠する騒動。
2004年(平成16年)
IT関連企業のライブドアが、近鉄球団買収の意向を正式に表明したが、近鉄側が正式に
拒否。