日本プロ野球史
1971年(昭和46年)
王貞治選手(巨人)、後楽園のアトムズ戦でセ・リーグ初の10本目の満塁本塁打を記録。
1994年(平成6年)
大リーグの労使協定が決裂し、選手会は85年以来、9年ぶりのストライキに突入した。
1999年(平成11年)
広島の江藤智選手は横浜戦(横浜)で10打点のセ・リーグ3人目のタイ記録。
2002年(平成14年)
西武の張誌家投手はロッテ戦(千葉)、6回途中で退いたが、7月21日の近鉄戦からこの試合5回まで、28イニング連続奪三振のプロ野球新記録を樹立。
1991年(平成3年)
ダイエー・門田博光選手、17本塁打。43歳で最多記録。
1999年(平成11年)
巨人のガルベス投手は横浜戦(横浜)で6回に満塁本塁打。
5月21日にも、満塁本塁打を打っており、投手で年間2本はプロ野球史上初。
1950年(昭和25年)
大映-南海戦で外野フライの捕球をめぐって紛糾。南海が試合放棄。
1966年(昭和41年)
米田哲也投手(阪急)、日生の近鉄戦に完投勝ちし通算200勝。
2002年(平成14年)
阪神のムーア投手は横浜戦(札幌ドーム)で3安打し、今季2度目の猛打賞。
年間2度の猛打賞は85年川口和久投手(広島)以来で17年ぶり。
2002年(平成14年)
近鉄の梨田昌孝監督が一塁塁審の胸を突き、現役時代を通じて27年目で初の退場処分を受けた。
1977年(昭和52年)
南海・江夏豊投手、6試合連続セーブのパ新記録。
1989年(平成元年)
オリックスの門田博光選手が通算500本号塁打。
41歳では日本新の23号。
2000年(平成12年)
プロと社会人チームの交流試合の実施協定ができて初の試合、湘南シーレックス-日産自動車が横須賀スタジアムで行われた。
2002年(平成14年)
巨人の阿部慎之助選手がヤクルト戦で、セ・リーグ史上500本目のサヨナラ本塁打を放った。
1969年(昭和44年)
成田文男投手(ロッテ)、西宮の阪急戦でノーヒット・ノーラン試合。
2003年(平成15年)
横浜の金城龍彦選手が広島戦(広島)で左右両打席本塁打。
金城は3日前の阪神戦でも左右両打席本塁打を記録しており、年間2度はセ・リーグで初めて。
2003年(平成15年)
阪神は井川慶投手が対巨人戦に完投で勝ち、このカードに1985年以来、18年ぶりに勝ち越しを決定する。
2004年(平成16年)
12球団代表会議が開かれるが、球団再編成問題に関しては大きな進展がないまま終わる。
1948年(昭和23年)
横浜・ゲーリッグ球場での巨人-中日戦が日本初のナイトゲームに。
1984年(昭和59年)
西武ライオンズは、台湾の郭泰源投手と正式契約したと発表。
2004年(平成16年)
巨人の工藤公康投手がヤクルト戦(東京ドーム)で通算200勝を達成。
92年の北別府学投手以来12年ぶりで球界23人目。
この試合で工藤投手は23年目にして初本塁打を放つ。
1964年(昭和39年)
中山俊丈投手(中日)、巨人戦でノーヒット・ノーラン試合を記録。
1966年(昭和41年)
王貞治選手(巨人)、大洋22回戦で新治伸治投手から250号ホームラン。
1974年(昭和49年)
日本ハムの高橋直樹投手は、近鉄戦で勝利投手とセーブを同時に記録する珍記録を作った。
1965年(昭和40年)
東映の嵯峨健四郎投手が90打席無安打にピリオドをうつ。
1972年(昭和47年)
張本勲選手(東映)、平和台の西鉄戦で通算2000本安打。
1980年(昭和55年)
阪神・岡田彰布選手がセ・リーグ2万本目のホームラン。
1995年(平成7年)
ヤクルトのブロス投手は、同球団の外国人投手で初めての完封勝利を巨人戦で達成した。
1970年(昭和45年)
ヤクルト・別所毅彦監督辞任、小川善治コーチが監督代行となる。
2003年(平成15年)
巨人の川相昌弘選手は横浜戦(東京ドーム)で通算512犠打を達成し、エディ・コリンズ選手のメジャー・リーグ記録も抜いた。
2003年(平成15年)
日本ハムは札幌ドームの対近鉄戦に3対1で勝ち、2001年以来、同球場開催11試合目で初勝利。
翌2004年からこのドームが本拠地となる。